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自由主義国の流通業界は天国と地獄の間を往来している。
元谷●今日は大変お忙しいところを、ビッグトークにご登場いただきましてありがとうございます。いろいろと社長がお話しになっているのを伺ったところ、非常に私の考えに近い。日本のことや事業のことなどをお話しいただければ幸いです。元々ご出身はどちらなのですか?
清水●三重県の津です。大正十五年の四月十八日に生まれて、九歳までいました。その当時三重県松坂は綿花の産地。この摘んだ綿を糸にしたり織物にしたりタオルにする仕事を親父はやっていたのです。第一次世界大戦でえらく利益が上がりましたね。ところが昭和初年の恐慌でやられて、工場も何もみんな売り払いました。そして昭和七年に両親は兄弟を連れて東京へ。僕は二年遅れて、昭和九年に大阪へ行きました。大阪貿易学校を出て、陸軍の学校の教官を一年やって、それから陸軍の特別幹部候補生で、鉄道第二連隊千葉に入りました。最後は本土防衛特別攻撃隊です。たこつぼ特攻隊というやつ。たこつぼを掘って、戦車地雷を抱えて、上陸してくるアメリカの戦車に突っ込んで靖国神社へ行くと。九月一日に九十九里浜の防衛戦で指揮をするところが、八月十五日敗戦になって助かったのです。
元谷●終戦の時は何歳だったのですか?
清水●十九歳と四カ月です。
元谷●血気盛んな時ですよね。
清水●ええ。それからが大変。八月二十九日に軍隊が解散して大阪へ帰りました。でも住む家も無ければ食べる物も無いし、働く場所も無い。隊から帰った翌日から阪急と国鉄大阪駅の間にあるガード下で野宿しながら、ヤミの食料品の運び屋ですよ。そうしなければ食べられない。
元谷●そこが今の商売の原点なのですね。
清水●そうです。いや、なかなかおもしろかったね。それはダイエーの中内さんも神戸の三宮のガード下でいろいろなヤミの薬品などを販売していましたし、イトーヨーカ堂の伊藤さんも、北千住のわずか一坪の所で商売を始めてと、皆同じです。
元谷●そういう体験をした人というのは、やはり強いですよね。
清水●そうして僕は昭和二十五年まで大阪にいたのです。忘れもしない、昭和二十五年の六月二十五日。当時、僕はもう大阪の中央市場に食料品の仲買の店舗と荷受け会社を持っていました。朝四時過ぎに会社へ行って、お店で商品の割付をしていたら、事務員が飛んできて「戦争が始まった!」と言うんです。それが丁度六時頃でしたね。「朝鮮半島で、北朝鮮が南へ攻め込んで大変ですよ」と。それを聞いた時に、大阪では世の中の変遷から取り残されると思いまして、すぐに東京へ出てきたのです。五年掛けて大阪で作り上げた会社や財産を全部置いてね。
元谷●東京はどちらで?
清水●東京駅に着いたらまだ焼け野原でね。東京駅から上野まで一望ですし、ちょっと高い所へ上がれば富士山がまる見え。でも築地の新富町の一角が焼け残っていた。あれだけの再三の爆撃だったのに。僕はそこの焼け残りの古い家の一階に事務所を借り受けて、二階で寝泊まりしたんですよ。さてそれから何をやるかというと、上野のアメ横へ行くとアメリカ占領軍の横流しのコーヒーやココアやウイスキー、パイン、バナナ、オレンジ、グレープフルーツなど何でもある。これを関西へ送れば商売になると。アメ横の親分を訪ねて行って商品を仕入れて、夕方に夜汽車で鉄道小荷物で送る。自分もその列車に乗って、朝大阪に着くわけです。そして荷物を受け取って、ヤミの料理屋とかに売りに行くと高く売れる。それを何回か繰り返して、また元金を作り上げて。でもこんなことをやっていても利幅が少ない。倉庫へ行って、その荷札とかを見てヤミの元を探しました。それは日比谷の富国生命ビルと三信ビル。ここにアメリカ占領軍の政商が全部巣くっている。その連中を訪ねて直接物を仕入れる。そうすると利益が倍ぐらいになりましたね。
元谷●考えましたね。
清水●それを二年ほどやりました。昭和二十七年に朝鮮戦争が終わって、サンフランシスコ平和条約を吉田茂さんがアメリカと調印して、日本の民間貿易がやれるようになった。新設の通商産業省へ行って「貿易の割り当てをくれ」と言ったら、個人ではだめだから業界団体を作りなさいと言われたんです。そしてパインアップルの輸入協会、バナナの輸入協会、菓子・酒の輸入協会、柑橘類の輸入協会を作って、そこで割り当てをもらうんですね。いわゆる財閥解体で、三井も三菱も住友もみんな資本金十九万五千円の小さい会社に分断されてね、その連中を集めて、輸入協会とか組合を作って、外貨の割り当てをして、みんなで分ける。その時分に商社や銀行、通産省、大蔵省などの役所、政治家といろいろなつきあいが始まっているのです。
元谷●でもまだ三十歳前後ですよね。若い時にすごい力をお持ちになったのですね。
清水●その点は体で覚えてね。で、その外貨割当業はもうかるのです。役所から外貨割当を受けると、もう半年分の商売がその瞬間に決まるわけです。変な話ですが、天から千両箱が降ってくるようなもの。若いし、時間はあるし、お金の使い道がある。
元谷●かなりいい思いをしたのではありませんか?
清水●それで外国へ(笑)。昭和二十九年に海外へ出ることを覚えたんです。南極と北極と中近東を除いて、他は全部行きましたね。英語は全然わからないけど、パスポートと外貨さえあれば困らない。当時は日本人が海外に行くには制限が多かった。ところが僕らは、貿易をやっていたから無制限です。だからいつも懐に一万ドルや二万ドルが入っていて、世界中を旅行できる。
元谷●その頃の一万ドルはすごいですよね。
清水●当時は王侯貴族です(笑)。楽しかったですよ。だから昭和二十年代から五十年代の四十年間は、もうこんな楽しい人生はない(笑)。
元谷●今伺っているとそういう海外でのお話とか、非常に良い人生を過ごされて来て、私の先を行くような先輩だと思いました。
清水●そのバチが当たってね、四十年間良い思いをして、後の十七年間は懲役みたいなものです。
元谷●そうなんですか?
清水●ええ。われわれ流通業界というのは、それはひどい業界ですよ。アメリカを見てもヨーロッパを見ても、自由主義国家の流通業というのは有為転変で、地獄と天国の間を往来しているようなものです。アメリカでもセーフウェイとかシアーズとかKマートが、世界一の流通会社として栄華を極めましたが、その後転落したりまた浮いたり。創業のオーナーなどはどこへ行ったかわからないようになったり、社長・会長も絶えず交替している。今のウォルマートは天国ですが、『おごれる平家久しからず』の業界ですから、またいつかは凋落の時が来る。
元谷●厳しいですね。競争が激しいんですよね。
清水●はい。ですから今の十七年は刑務所に入っている(笑)。楽した分はやはり勤めなければいけない。だけど今振り返っても、私は今日現在何の悔いもないし、全力投球してきた人生。ですから今日我がことが終わっても何も悔いることはありません。
元谷●そうです。どれだけ長く生きたかよりも、どれだけ全力で生きたかというのが大事ですよね。
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